danny fields interviewダニー・フィールズ・インタヴュー(2006)
インタヴュー:熊谷朋哉
通訳:酒井翠
協力:アニエスベー・サンライズ
生き残ったのは怪物だけだ
アニエスベーが、60年代から80年代のNYアンダーグラウンドを題材にした10人のカメラマンによる写真展『バンダパール』を開催した。ビリー・ネームやジェラード・マランガ、ロベルタ・ベイリーにマリポールといった、日本でも知られた写真家が並ぶリストにダニー・フィールズの名を発見する。アンディ・ウォーホルのファクトリーでの「スター」の一人であり、MC5やストゥージズを捕獲した伝説のエレクトラ宣伝部長、ラモーンズのマネージャーがどうして?
聞けば彼はペンシルヴァニア大、ハーバード大を経てジャーナリストとして活動、その後エレクトラをはじめとする音楽業界と関わり、最近は著作活動と同時にカメラマンとして活躍しているとのこと。実際に作品を見れば、そうかこの写真も彼の作品だったのかと思わされつつ、今回はその写真の舞台となった「もうひとつのアメリカ」について語ってもらった。
なお、彼の発言は96年に発行された『Please Kill Me』にまとめられている。本稿でも語られる「伝説」の裏側のどうしようもなさと切なさ、人間関係と作品とが繋がっていく奇跡、そして今では完全に過ぎ去ったと思しき古き良き熱いなにかについて、より詳しくはそちらもぜひ参照してほしいと思う。
◎ダニーさんはまずジャーナリストとして活動を開始されたようですが。
「確かに複数の雑誌に関わったね。最も恐ろしかったのは66年にビートルズの“我々はキリストより有名だ”という発言を雑誌の表紙に使ったことだ。全米中が大騒ぎになってKKKや右翼のバカどもがコンサート会場に集まってしまい、その後彼らはコンサート活動をやめてしまった。悪いことをしたね」
◎へえ、あの発言をアメリカで報道したのは貴方だったんですか?
「そうなるね。後年、もともと親友だったリンダがポールと結婚した(ダニーにはリンダに関する書籍がある)。ある時、意を決してポールにそのことを話したんだ。“おまえだったのか!”と怒られた(笑)。でも誇らしかったよ。トラブルメーカーになるのは素晴らしいことだ」
◎(笑)ドアーズのパブリシストを務めていたそうですが。
「エレクトラに入ってからね。よく言われるとおり、ジムにニコを紹介したのも私だ。ジムはあまりにも醜いグルーピーたちに囲まれていたからね。しかしジムは本当に最悪で、ニコのことも殺しかけた。私はジムを評価しない。彼はロックンロールを文学と同じレベルにまで貶めた。あれが詩と言えるかい? ガキのためのものだ。パティ・スミスはまだ詩人かな。彼女やディランはロックンロールを文学へと引き上げたと言えるだろう」
◎なるほど、興味深い評価ですね。MC5とストゥージズに関しては?
「MC5はデトロイトですごい人気だった。イギーのことはウェイン・クレイマーが教えてくれた。初めて見た時は衝撃だったね。あんな動きをするシンガーは未だいないだろう? イギーを見た次の日にミシガンからエレクトラに電話をして両バンドの契約を取り付けた」
◎特にMC5は民主党大会に出たり、黒人公民権運動との関わりが知られています。彼らはそのあたりについてどれくらい意識していたんでしょう?
「連中はただのロック・バンドだ。イノセントで優しい奴らだったが、いろいろ考えられるほど教育があったわけではない。マネージメントのジョン・シンクレアの影響だね。ジョンは最初はジョークのつもりがあまりのバンドのパワーと盛り上がりに、本気で革命が出来るように思えてしまったんだ。しかし、本当の革命とはレーニンがやるようなことだ」
◎あの「マザーファッカー!」は……
「あの叫びは真実だったよ。彼らにはあのエネルギーがあったということだ」
◎同じ時期、パリでは五月革命が起きて日本でも学生運動が起きたりしています。いわゆる抵抗の動きが世界的に拡がっていたわけですが……
「(遮るように)なにを言うんだ、私はアメリカに居たんだよ? パリがどこにあるのかをアメリカ人が知るはずはないだろう(笑)。パリは遠すぎる。小さな影響はあった。コロンビア大とハーバード大の学生が反応したくらいだろう。日本とも違う。日本人の団結する力もアメリカにはない」
◎(笑)ということは、アメリカでは全く別の論理で抵抗を行っていた?
「アメリカの抵抗を繋げていたのはベトナム戦争だ。60年代後半、ロックは教育を受けた中産階級のものになり、反戦側の人々の最もエネルギッシュな活動の場としてそこで皆がひとつになることができたんだ。本当に音楽が第一だったよ。友達や恋人を作るためにはライヴに行くしかなかったしね。ウォーホルはアイデンティファイされるのを嫌ってクールを装っていたけれど、同じことだと思うね」
◎NYのファクトリーにも同じ空気はあったのですか?
「厭戦の空気があったと言えるだろうね。FBIトップの息子がドラァグ・クイーンとしてウォーホルの廻りにいたりもしたけどね(笑)。当時のNYはアメリカの他の地域とはまるで違っていた。才能とルックスに恵まれた連中だけがマクシズやファクトリーに出入りできた。パティ・スミスとロバート・メイプルソープはマクシズの常連になりたくて仕方がなくて毎晩入り口で押し問答をするわけだ。あんまり可愛そうなんで私が呼び入れてあげた。やった!って喜んでたよ(笑)」
◎(笑)田舎から出てきたリチャード・ロイドの面倒も見てあげたそうですね。
「テレヴィジョンは美しいバンドだった。リチャード・ヘルとトム・ヴァーレインの肌は本当に美しかった。ロイドはモテたよ。色んな奴にファックされたはずだ。私もファックした」
◎……へぇー。
「ディー・ディー・ラモーンだって時には男娼だった。女とも男ともファックした。私は現代的なことだと思っていたよ」
◎その後、そのラモーンズのマネージャーも務めていますけれども。
「イギーよりは楽だったかな。でもバンド内が女性関係のトラブルが多かったのが辛かった。ジョーイも死んだ。私の廻りは死人ばかりだよ。本当にそうだ」
◎ジム・キャロルの「People who died」を思い出しますね。
「あれは我々のアンセムだった。みんな死んだ。27歳は魔の歳だった。みんなヘロインに殺された。生き残ったのは怪物だけだ。ルー・リードが生き残っているのは皮肉だね。確かに天才だが、優しさや賢さは伴っていない。イギーは素晴らしい。才能と破滅性を併せ持ちながらもしっかりと生き残った。珍しいことだ。神からの贈り物のようだね。だが私は怪物には疲れてしまった。ベートーヴェンの弦楽四重奏曲を聴くだけだよ。まあベートーヴェンも怪物なんだが」
◎さて、今後のご予定は?
「一応回想録を書いているけれどもね。ガーデニングも好きだよ」