keith leveneキース・レヴィンの素顔──彼は複数形で存在する /
days with Keith Levene (2009)

インタヴュー:熊谷朋哉(SLOGAN)
通訳:更科留衣

彼は新品のメタル・ボックスを手渡した

「今、これが俺に出来る最高のことだ……(This is the best thing that i can do now)」。 2日間を共に過ごした別れ際、彼はそう言って私に『メタル・ボックス』を差し出した。ビニール・コーティングされた全くの新品、文字通りにメタリックなその3枚組。時折中古盤屋や友人のレコード棚で見かける錆の浮き出たものではない。ロンドン北東にあるその自宅で、そのコーティングを破り、金属缶にサインを書き始めるキース・レヴィン。隣で彼の妻が微笑んでいる。これほど今の彼を象徴する光景はない。時計は朝の4時を指す。

初期クラッシュに在籍し、そしてパブリック・イメージ・リミテッド(以下PIL)の核となったこの伝説のギタリスト/コンポーザーと筆者の縁は、もともとはひょんなことで始まったメールのやりとりだった。最初に彼から届いたメールには、こちらを試すような文面が並ぶ。

「俺は裏切られた……貴様とは仲良くなれるように感じる……貴様がクールな奴であると期待している……」。

キース・レヴィンが恐ろしく気難しい人物であることは聞き及んでいた。WEB上には、いくつかの詳細ながらも辛辣なインタヴュー、PILについて聞きたがるジャーナリストを奇妙に入り組んだ冷酷さで翻弄する彼の姿が公開されている。ジャンキー、または異常性格者であるという噂も未だ根強いものであるようだ。

当然ながら、結果として、現在のキースについての情報はあまりにも少ない。彼は今、どんな生活をしているのか? 今も音楽は作っているのか? キース抜きで再結成したPILについてはどう感じているのか? ジョン・ライドンについては?

興味と不安とをないまぜにしつつも、矢継ぎ早に届く彼からのメールに返信を行う他はなかった。

モニタのむこうのキース・レヴィン

もちろんリアルタイムではないが、キース・レヴィンは確かに筆者のヒーローの一人だった。PIL最初の3枚のあの奇跡。どの要素とも決して馴れ合うことのないギター、破壊と再生とが同時に成されたような音作り、そしてフォーク的なるものとの徹底した乖離。パンク以降の、ニュー・ウェイヴと呼ばれた/若しくはまだ呼ばれていなかったなにかの可能性と美学、その最良のものが今もそこには存在し、その中心を為すもののかなりの部分がこの人物によるものだったことは言を俟たない。

周知の通り、彼は4枚目のスタジオ・アルバムとなるはずだった『コマーシャル・ゾーン』のリリースを巡る確執からPILを83年に脱退する。その後はPILに於けるレゲエ/ダブ志向を裏付けるようにエイドリアン・シャーウッド周辺との活動を行い(その後も長く散発的に、ON-U周辺からいくつかの12インチ等を発表)、88年にはレッド・ホット・チリ・ペッパーズやフィッシュボーンのメンバーらが参加した初のソロ・アルバム『VIOLENT OPPOSITION』をリリースしている。ここではジミ・ヘンドリックスの「If Six Was 9」、ジョン・レノンの「Cold Turkey」等がカヴァーされたが、特に後者では、実際にヘロイン中毒に苦しんだキース自身がヴォーカルを取っていることでも注目を集めた。その後も断続的に別名義でのリリースやゲスト出演等を行いつつ、02年には現在に至るまで彼が名乗るプロジェクト名“マーダー・グローバル”名義によるEP『KILLER IN THE CROWD』が発表されている。

それにしても返信は素早い。一度返信した後の勢いは驚くべきものだった。2、3通目の返信にして、数多くの未発表曲が送られてきた。写真素材が送られてきた。その中には“John is dead”なるものまでが入っていた。奇妙なCG動画が送られてきた。3DCGグラフィックを乗せたミュージック・ヴィデオが送られてきた。その3DCGは“PILロゴの脱構築”であるらしい。私たちのやりとりは、最初に彼からメールが送られてきたその夜のうちに、SKYPEで話すことにまでなってしまった。

「貴様とは向き合って話すべきだ、目と目で話そう……」

SKYPEの、少し不鮮明な画面の奥にキース・レヴィンの姿が現れたときの不思議な感慨をどう表現すればいいのか。メガネを掛けた理知的な表情、整った衣服、後ろに映る数本のギターとベース。そして彼がカメラに顔を近づけたときに映る眼は、碧く、しかし決して険のあるものではない。09年9月14日、“これまでこの惑星に降り立った中でも最も優れたアーティストの一人(ジョン・ライドン)”であるキース・レヴィンの実在を確認する。彼は生きていた。画面には時折、奥さんだという女性が顔を出す。

マルチ・メディアと日本、そしてデヴィッド・ボウイ

かなり癖の強いイギリス英語で彼は語りだした。日本(とそのテクノロジー)への想い、デヴィッド・ボウイへの偏愛、マルチタッチ・スクリーンの開発者であるジェフ・ハンへの尊敬……。プログラムとCGを日常的に作っているということ、スタジオから帰ってきたばかりだということ。飽くことなく彼は語り続けた。

日本への憧憬は、彼によれば“魂からのもの”であるらしい。83年の来日前にPILを脱退したことを悔やむキース。 

「俺が我慢してPILに居続けることができたら、あの来日公演はもっといいものになるはずだった。あの来日公演をアレンジしたのは俺だ。日本全国10ヶ所くらいをブッキングしたと思う。俺は本当に裏切られたんだ。誰が裏切ったのかって? PILだ」

……こちらに何も言えることはない。話は続く。

「マルチ・タッチ・スクリーンを使った未来的なイヴェントを開きたいんだ。再結成されたPILなどどうでもいい。急いではいない。正しい時、正しい人間と、正しい場所であればそれでいい」

「まるで『ブレード・ランナー』のようなトーキョー! 『ブラック・レイン』のオーサカ! 日本の写真は俺の目にはまるでキャンディのようだ……」

「デヴィッド・ボウイが本当に死ぬほど好きだ。時には彼もクズのようなものをリリースするが、それすらも俺は嫌いになることができない、いや、そんなものでも愛しているんだ」