masayoshi sukita interview「今」起きていることを、この目で確かめたい。
居ても立ってもいられなかった
鋤田正義インタヴュー(2006)
TEXT:熊谷朋哉(SLOGAN)
初出:毎日新聞2006年6月25日朝刊・バックステージ
写真:下家康弘
70年代にロンドンでデヴィッド・ボウイやT.REXを撮影。その50年にも渡る活動の中で写されてきたものは、ただのポートレートではなく戦後日本人が見た世界史でもあった。
デヴィッド・ボウイやT.REXの決定的なポートレートをものしたことで世界に知られる名カメラマン、鋤田正義。その50年近くにも及ぶキャリアを振り返る大規模な写真展「シャッターの向こう側」が開催された(終了)。ボウイやT.REXはもちろん、ジミ・ヘンドリックスから沢田研二、YMO、布袋寅泰、数多くのミュージシャンのポートレートがまずは圧倒的な印象を残す。
「T.REXを撮りたいな、という気持ちだけで約束もなしにロンドンに行きました。ヤッコさん(高橋靖子さん/スタイリスト)の助けを借りて、今までの作品を見せてOKをもらって撮影。ボウイはロンドンで初めてその存在を知って、こちらも現地で交渉して撮影したんです。ロックはただの音楽ではなくて、ファッションも含めて文化全体を体現するものでした。特にグラム・ロックはそれが際立っていた」
当時の鋤田氏は広告カメラマンとしての実績を重ねる一方、例えば原爆をテーマにしたドキュメンタリー的な写真を撮り、寺山修司映画のスチールを撮り、伝説的な写真誌「カメラ毎日」では写真の実験を繰り広げていた。
「広告は広告として必死にやりつつ、自分の写真家としての居場所を探していたんでしょうね。まだ若かったし、今起きていることをこの目で確かめたいなと、居ても立ってもいられなかった」
写真展は、自ら原点と語る、高校生時の鋤田氏による母君の写真から始まっている。そして被爆者があり、ジャズがあり、広告があり、ミュージシャンのポートレート、映画のスチールがあり、その視線は「20世紀がくれたもの」と題されたテクノロジーの変遷へと広がりを見せる。これは鋤田正義というカメラマンの個人史であると同時に、戦後の日本人が見た20世紀の文化史とも言えるものだ。時代の流れのなかで最もエネルギーが高まった部分を確実に捉えてきた。
「その時に撮りたいと思う対象を撮り続けた結果ではあるのですが、やっぱり自分が感動するものは自分で撮りたいという思いがあります。それは今も全く変わることはありません。先日もオリンピックの荒川静香さんをテレビで見ていて、感動しながら悔しさを覚えたんです。どうして僕はあの場で写真を撮っていないんだ、と」
07年春、30年以上に渡って撮り続けてきたデヴィッド・ボウイの写真集をロンドンの出版社ジェネシスから発表する(11年秋に発売確定)。ドキュメンタリーとして、また芸術としてのポートレートを後世に残す作業は、洋の東西を超えた文化の交流でもあった。
「ボウイを撮ることは僕のライフワーク。長年撮っていると、お互いの変化が響き合ってくる。共通の土壌があると同時に、お互いに文化のやりとりをしているのかもしれない。イギリスと日本の距離や、写真を撮り始めた頃と今との距離を改めて考え直す機会になりましたね」
6月30日、「ロックスタイル」の第一回イベントのトークショーに長年の戦友とも言うべき高橋靖子さんとともに出演する(終了)。テーマはグラム・ロック。ロックを最も輝かしく撮ったカメラマンの生の声に触れる貴重な機会と言っていいだろう。
鋤田正義 Masayoshi Sukita
1938年5月5日生まれ。福岡県直方市生まれ。日本写真専門学校卒。ラジオを聴きつつ映画に熱中。ジェームス・ディーンやマーロン・ブロンドに憧れ、55年の『暴力教室』でロックを知る。18歳からカメラを手にする。1961年広告代理店大広入社。1965年デルタモンド入社。ここでは旧友のアートディレクター宮原哲夫らと初期の代表作『JAZZ』等を制作。1970年よりフリー。この頃より『カメラ毎日』にて連載開始。以後、広告、映画、音楽の分野で精力的な活動を続ける。
ジャケット作品にデヴィッド・ボウイ、サディスティック・ミカ・バンド、YMO、シーナ&ザ・ロケッツ、布袋寅泰など。映画では寺山修司『書を捨て街に出よう』撮影監督、ポール・シュレーダー『MISHIMA』、ジム・ジャームッシュ『ミステリー・トレイン』、是枝裕和『花よりもなほ』などでスチール担当。写真集にデヴィッド・ボウイ写真集「氣/Ki」『T.REX 写真集』沢田研二写真集『水の皮膚』YMO写真集『YELLOW MAGIC ORCHESTRA×SUKITA』など。11年、英ジェネシス社よりデヴィッド・ボウイ写真集を出版予定。