jody harris interviewジョディ・ハリス・インタヴュー:
共演したい相手? ロバート・クワインだけだね

インタヴュー&撮影:熊谷朋哉
通訳:酒井翠

今回のコントーションズ公演は、このギタリストが目当てだったファンも多かったのではないか。ジョディ・ハリス、痙攣するギターでこのグループの刃先を研いだ男。『NO NEWYORK』裏ジャケットで醒め尖った表情で煙草を片手に持っていた彼が、まるで大学教授のような風貌で現れた。トム・ヴァーレインより硬質で、共作アルバムを残しているロバート・クワインよりもストレート、そしてアート・リンゼイよりバネのあるそのギター。戦後アメリカン・モダン・アートの一形態としてのエレクトリック・ギター界(?)を代表するこのプレイヤーは、素晴らしく紳士的で知的な人物だった。

◎お生まれは?

「オクラホマに生まれて、5歳の時にカンザスに引っ越した。父親は教師だった。ギターは子供の頃から好きだったんだけれど、エレキ・ギターを始めたのは大学に入ってからだね。すぐに学校からドロップ・アウトしてトップ40バンドに入ってツアーをしていたよ」

◎コントーションズに参加した経緯は?

「カンザスというのはビートニクの連中の本拠地なんだよ。74年かな、アレン・ギンズバーグがウィリアム・バロウズの秘書をやることになってNYに行った。その時に僕も一緒にNYに行ったんだ。当時バロウズの周りには面白い人ばかりだったね。76年にマーズの連中に会った。一緒に音楽をやろうと思ったけれどあまりうまくいかなくて、(マーズの)ナンシーがジェームズを紹介してくれた。赤のヴェルヴェット・スーツを着ていたような気がする。ジェームス・ブラウンやマイルス・デイヴィスに興味があると言ってたね。その後ジェームス・ナレスが抜けて、レック、チコが日本に帰ったあとで、僕がドンと一緒にコントーションズに入ったんだ」

◎コントーションズ後も色々なプロジェクトに参加していますね。

「まずはドンとインストゥルメンタル・グループのレイビーツを始めた。その後にリチャード・ヘルのツアーに参加したね。その時のドラムがアントン・フィアーで、それが縁になって彼のゴールデン・パロミノスに誘われたんだ。色んなミュージシャンが参加するプロジェクトで、本当に面白かったね。マイケル・スタイプ、リチャード・トンプソン、他にも世界中全ての人種が居たと言っても過言じゃない。2枚アルバムを出して2回ツアーをしたかな。それからはカリフォルニアに移っていたんだけれど、そちらで息子が出来て、NYに戻って就職した(笑)。音楽じゃ食えなくてね。今も働いているよ。だから今回ジェームスと日本に来られてとても嬉しいね」

◎そうなんですか。昔から不思議だったんですが、ロバート・クワインも、トム・ヴァーレインも、もちろん貴方もそうですが、いわゆるNYパンクのギタリスト達にサーフ・ミュージックの影響が強いのはなぜなんでしょう? 世代的なものでしょうか、それとも文化的なものなんでしょうか? というのは、みんな、サーフィンをするタイプには見えないんですよね。

「(爆笑)確かに僕は一回もサーフィンをしたことがない(爆笑続く)。でもそれは大事な点だね。サーフ・ギターにはとてもイノセントなものがあるんだ。というのは、実はエレクトリック・ギターというのは1950年に出来たものだから、僕らの若い頃はまだすごく新しいものだったんだよ。エレキ・ギターを手に入れて弾いてみて生まれるものは、つまりマジックだったんだね。サーフ・ミュージックには、ギターにとってすごくピュアでクリーンなものがあるんじゃないかな。そしてもうひとつ、サーフ・ミュージックというのはとてもとても白人的な音楽だ」

◎なるほど。同時に、NYパンクのギタリストたちには、エレキ・ギターの持つよりモダンな側面と言っていいのかな、表現主義的な方向においてもテクニカルな方向性においても、アブストラクトな表現に進む傾向があったと思うんです。

「特にロバート・クワインがそうだね。彼はロックとジャズの生きた事典みたいな男でね、レコードを5000枚くらい持っていて、僕らは何千時間も一緒にレコードを聴いて過ごしたものだ。本当に凄い男だった。脳のどこか違う部分で音楽を聴いて音楽を作ることの出来る人間だった。僕はジミ・ヘンドリックスが好きだった。ジミにはすごくエクスプレッシヴでロマンティックで、どこかワーグナーのようなところがあるね。それとマイルス・デイヴィスだね。
 しかしどうだろう、イノセントな表現とエクスプレッシヴでアブストラクトな表現は、確かに一見両極端に思えるけれど、本当に違いがあるのだろうか。ジャズ・ミュージシャンは、インサイドが音楽、アウトサイドがノイズだとよく言うけれど、本当にそういう区別が出来るんだろうか。見え方、バランスの違いのような気もするね」

◎私にとって、貴方がたのギターは戦後アメリカのモダン・アートの一形態だったんですが……

「僕にとっても本当にそうだったね。日本でのアートの状況はどうなっているんだい?」

◎うーん、ひとことで言えばソウル・オブ・ロックンロールの喪失でしょうか。東京では、資本の論理が強すぎてアートに対して夢を持ちづらくなっていると思いますね。

「そうだろうね。NYでもその通りだよ。僕がNYに来た頃は、仕事がなくてもなんとなくやっていけたんだ、働きもせずに音楽をやるだけだったんだけれど。
 今では若者は3つの仕事を掛け持ちしないと食べていけないような状況だ。時間がまったくないし、そんななかでどうやって音楽がやれる? どうやってプロになるか、お金を儲けるために真剣にならないといけないような状況があって、そんな中では自由な音楽が進化するはずもないよね。これからディストリビューションが変わってライヴがまた重視されるようになるんじゃないかとも思うんだけれど」

◎最後に、これから一緒にプレイしたい人はいますか?

「ロバート・クワインだけだね。彼は僕の親友であり、師であり、誰も彼の代わりにはなれないだろう。彼には暗さと硬さと質感があって、つまり、重みのある人物だった。僕は彼の周りで光と影を演出していただけのように思うよ。もう、こういうコンビネーションを組むことは難しいだろうね」