annie leibovitz & anton corbijnふたりのロック・フォトグラファー、もしくは映された70年代中盤のロックンロールについて / about Annie Leibovitz & Anton Corbijn(2008)

テキスト:熊谷朋哉(SLOGAN)

今春、アントン・コービンとアニー・リーボヴィッツという二人の著名なロック・フォトグラファーにまつわる映画が公開される。『CONTROL』、そして『アニー・リーボヴィッツレンズの向こうの人生』。奇しくもそこでは、70年代中盤のロックのある姿がともに描かれることとなった。

『CONTROL』を監督したアントン・コービンは1955年オランダ生まれ。76年にフォトグラファーとしての活動を開始し、79年にジョイ・ディヴィジョンを撮るために渡英。後に有名になった地下鉄駅での4人の写真――イアンだけが後ろを振り返っている――をものする。その写真を喜んだバンド側から更なる撮影を依頼されて再び渡英。「イギリスではロック・シンガーが真剣に人生から逃避していることに打たれ」、そのままイギリスで数多くのミュージシャンを撮り続けることになった。

よって今作は、アントンが本格的にフォトグラファーとしてのキャリアを積むきっかけとなった対象を、映画という手段によって改めて採り上げたものである。

そもそもの映画の原作はイアンの妻によって1995年に記された『タッチング・フロム・ディスタンス』(邦訳蒼氷社)。妻の立場から、イアンとの出会いとその素顔、バンドの始まり、娘の出産、イアンの病と不倫、成功しつつあるバンドの姿、そして、初のアメリカツアー前日に為されたイアンの自殺が描かれる。

これはその後のあらゆる形で語られ、ほとんど神話化した物語である。しかしここではその物語は一種不思議な感触を残す。よく再現された俳優達によって演じられるこの作品は、その神話をある意味で解体し、ある意味では解体しない。

描かれたイアンの姿は神話的なものとは程遠い。彼はスターになることに貪欲なガキであり、エゴイスティックなシンガーであり、父としての役割を果たすこともない、破綻した家庭人である。また、その詞作が現実の出来事と明確に対応していることを示されてみれば、その余りのわかりやすさに憤りを覚えつつも納得せざるを得なかった。しかし22歳の青年に自らのこと以外に何を歌えるだろう? たとえ天賦の才に恵まれていたとしても、イアンがもちろん超人であったはずはない。

しかしそのリアリズムにもかかわらず、この映画にはやはり不思議な感触が残る。これはなぜか? バンドのメンバーたちは素晴らしい、イアンの愛人アニークを演じるアレクサンドラ・マリア・ララは素晴らしい。夫の死を知ってパニックになる妻を演じるサマンサ・モートンは素晴らしい。そしてやはり「アトモスフィア」「トランスミッション」は素晴らしい。この問いは、なぜ今もジョイ・ディヴィジョンの音が神話的に響くのかという問いでもあるだろう。

確かなのは、アントンもイアンも、ロックをある種の信仰とともに手放しで神話化できた世代であるということである。70年代中盤から80年代にロックに向かった世代であると言い換えてもいい。パンク以降とも言えそうだが、むしろパンク自体もこの世代に属すると考えたい。この映画中で描かれるデヴィッド・ボウイ、ルー・リード、イギー・ポップたちの姿は、その年代の若者にとって、彼らがどれだけ大きい存在だったかを示してあまりある。イアンとアニークのラヴ・シーンで流れる「ワルシャワ」……。

70年代中盤以降のロックに対するリアリズムと神話再生産とのバランス感覚と言えば、もしかしたらアントンの写真を評する言葉にもなるだろうか。今作は、なによりもあの時代のロックが持ち得た何かを伝える映画であるように思う。

一方のアニー・リーボヴィッツは1949年、アメリカはコネチカット生まれ。名実ともに現在のアメリカを代表するフォトグラファーであると言っていいだろう。今回公開された『アニー・リーボヴィッツ レンズの向こうの人生』は、その40年に及ばんとする活動を振り返った映画作品である。

彼女のレンズの前に立った数々の人物たちがアニーを語る。キース・リチャーズ、ミック・ジャガー、ヨーコ・オノ、パティ・スミス、ペット・ミドラー、ウーピー・ゴールドバーグ、ヒラリー・クリントン……。この顔ぶれを見るだけでも、彼女がどれだけの評価を得ながら、ロックの世界からいわゆるセレブリティへとその対象の角度を拡げてきたかが了解されるだろう。ミック・ジャガーが語る。「彼女の写真はアメリカの肖像だ」。

1970年、彼女は'67年に創刊されたローリング・ストーン誌で仕事を始める。まさしくロックのエネルギーと同調するように生まれて成長を果たしたこの雑誌の表紙を飾った写真は、同時代を過ごした多くの人々にとって記憶に残る作品であることだろう。火の前に佇むパティ・スミス、精悍なミックとキース、自信に満ちたボブ・ディラン、そしてその死の数時間前に撮られた、ヨーコに抱きつく裸のジョン・レノン。これらはロックのイメージをわかりやすいまでに定着した。その後の彼女は軸足をファッション誌に移し、音楽業界に留まらぬ現在の名声を勝ち得ている。

映画は1975年のローリング・ストーンズ全米ツアーへ同行したアニーについて多くの時間を割いている。アルバム『It's Only Rock&Roll』発表後、もっとも荒れ果てていた時期のストーンズ。アニーは編集部の反対を振り切って単身ツアーへ乗り込み、数多くの写真を送り続ける──自らもドラッグに翻弄されながら。この時期の写真を振り返りながら語るキースは今作の見もののひとつである。

現在見られる彼女の作品は、作り込まれ、物語性・意味性が存分にデコレートされた写真と、ジャーナリズム的にざっくりと一瞬を切り取った写真とに大きく分けられることになるだろう。現在の筆者にとって好ましいのはやはりその後者の要素であり、特に70年代中盤の作品では、その両要素のバランスが最もうまく拮抗していたように思われる。それは時代ゆえか、それとも対象ゆえのことなのか? ともあれその時期、時代や対象との関わりの中で、彼女のレンズは最も適切な距離を取った。しかしそれは果たして永遠のものか?

アニーは、2004年に死去した批評家のスーザン・ソンタグと恋愛関係にあった。今作では晩年のソンタグ、癌に冒され倒れゆく彼女の姿が数多く紹介される。この写真たちに漂う、ざらつきながらも乾いた感傷がいい。ジム・キャロルを撮ったアニーと同じく、ソンタグもまた70年代中盤にはロック、なかでもニューヨーク・パンクに深く拘泥した人物であった。ソンタグはパティ・スミスのアルバムにコメントを寄せ、またパティはソンタグの死去に際して追悼の言葉を残してみせた。「スーザン・ソンタグが今朝穏やかに息を引き取りました。彼女の癌との戦いは苛烈でした。私たちの精神の戦士は三度目の戦いで勇ましく倒れました。さあ、宇宙が待っています。美しい旅を、スーザン」

先に引いたミックの発言は、これら、そして70年代中盤のロックに通底するなにかにこそ相応しく思われてしまうのだが、もちろん、現在のアニーが既にさらに大きな存在であることは言うまでもない。「アメリカ」は確かに広大であり、時代は変わる、のだった。