ryoichi kurokawa × jun ebaraブリュッセル、昼と夜の間で──黒川良一と江原順に寄せて

テキスト:熊谷朋哉(SLOGAN)

'09年の7月にブリュッセルを訪れた。初夏でも夕方は肌寒い──皮のコートを着る女性が隣を過ぎていく。マグリットの「光の帝国」(1954)を思い出す。真昼の空に夜の地上。このベルギーに生まれた画家にとって、その光景はただの現実以外のなにものでもなかったはずだ。敢えてシュルレアリスムという呪文を持ち出す必要はない。

Photo at Recombinant Media Labs, San Francisco, 2006 (Photo by R. Yau)

Photo at Recombinant Media Labs, San Francisco, 2006 (Photo by R. Yau)


しかし筆者訪白の目的は、その呪文にも半ば関わることだった。ひとつはその地に住み、現在世界最高のオーディオ/ヴィジュアル・アーティストである黒川良一に会うこと。ふたつめにシュルレアリストであり美術評論家であり、同じブリュッセルで'02年に客死した江原順に一輪の花を手向けること。

黒川良一は'78年大阪生まれ。PROGRESSIVE FOrMから'03年にCD / DVD『copynature』でデビューし、オーディオとヴィジュアルをインスタレーションやライヴ・パフォーマンス等で展開する。特にそのライヴの美しさと激しさは圧倒的なもので、ヨーロッパ全域はもちろん、カナダ、アメリカ、そしてロシアや台湾とツアーと絶賛とを重ね、その偉大さに気付いていないのはもはや日本だけだと言っていい。'09年、この国は彼に満足な作品制作環境を与えず、遠くベルギーへと彼を逃がしてしまった。“ヨーロッパ各地からのオファーが多いので、ブリュッセルがどこに行くのにも便利だったというだけなんですけれどもね”──屈託なく笑う彼の選択がEUの中心地に選ばれた場所だったことは、しかし、決して偶然ではないはずである。

脳科学や複雑系に造詣の深い彼と、可視的構造を規定する不可視的営為について話し合う。ベルギー・シュルレアリスムを、そしてこの地に斃れた同胞である江原とを思い起こす。無意識やリビドー、“客観的偶然”……シュルレアリスムのパン種であったそれらを、彼らもこのように語ることがあったのかどうか。本場パリや故郷からの距離は、翻訳同様、それら概念を過激化・先鋭化させたことだろう。

一方の江原順は'27年岐阜生まれ。『ダダ宣言』やアラゴン『イレーヌのコン』などの翻訳で日本に海外の芸術運動を輸入しつつ、'62年以降はパリ、ブリュッセルに渡り、現地のシュルレアリスト・グループに参加。その後美術評論家として活躍しつつ、前述の通り'02年1月にその死去が確認されることになった。彼には上記翻訳、『見者の美学』などの美術批評書とともに『日本美術界腐敗の構造』('79)という著作があり、もしかしたらこれが最も広く知られた作品であるかもしれない。タイトル通りに一種の暴露本だが、しかしいわゆるそれらとは全く一線を画して芸術の自律を真正面から謳う、ストレートな芸術礼賛の一冊である。“この本では、私は、詩が詩であること、芸術が芸術であって、他のことの口実に使われてはならないということしか言っていない。「知の汚点は大海の水をもってしても洗えまい(ロートレアモン)」”(まえがきより)

Photo at Shanghai eArts, 2008, Shanghai

Photo at Shanghai eArts, 2008, Shanghai


一人の旅行者に過ぎない筆者にとって、ブリュッセルで彼の最期の地を探すことは難しかった。もとより墓暴きのようなことをするつもりもない。何人かの人間にその話を振り、誰もそのことを知らなければそれで終わりである。これでいい。同じ異邦人として黒川と、そして願わくば亡き江原と同じ空気を吸ったことで私は満足していた。

しかしそれでも秘かに自らの中には憤りが滞留する。どうして黒川と江原が日本を離れざるを得なかったのか。国境や国籍を重視するつもりもないが、どうして真正面からの作品づくりや批判はいつも日本の外から行われなければならないのか。ここにはこの国のずっと変わらぬなにかが現れているはずである。金の問題ではないと大言壮語する人間は自らの利益計算にだけは素早く、私的な交流が美的判断と言説とを曲げることへの恥じらいもない。江原はすでに書いていた。“日本では、ことに、企み(タンタティヴ)だけが横行しやすくて、事実(レ・ゼフェ)は生きにくい”(前掲書あとがき)。この文章が書かれてから30年余、状況は幾分でも変わっただろうか? 私にはわからない。

この経済危機によってかよらずか、この国の音楽も、出版も、そして美術も、経済的な成立が難しいものになりつつある。文字通りに自らの肉を削る石毛栄典が『ユリシーズ vol.1』で切実に訴えた通り、作品づくりや批評以前に、最も単純な経済原理によってそれらが全て自壊する可能性すらあるだろう。どこに解決の糸口はあるか。モラルやインフラ、そして政治の問題も当然大きいはずだ。圧倒的な才能と努力によってすら、個人が一つの社会の中で飛び上がることの出来る高さは多寡が知れている。しかし、そうであってもやはり、すでに70年代に江原がパリで書き記していた言葉が今の筆者にとっては輝かしく思われるのである。

“出版が倦きられだした職業になっているのは、交替がじゅうぶんではなく、新しい世代がどんな危険も冒したがらないようにみえるからである。図書館がわれわれの生活からなくなり、われわれの孫たちが本とはどういうものかさえ忘れ果ててしまわないうちに、われわれは、他のことに煩わされないで、インクと紙で、もっとも美しくもっとも驚異にみちたものをつくることを心がけなければならないだろう”(1977年8月、『イレーヌのコン』邦訳解説)

ブリュッセルの昼と夜、若しくは、ブリュッセルの今と昔。その地で真正面から芸術に向き合う何人かの日本人。ベルギー同様ミカドの国である日本にいる私は、その間から彼らを見上げるだけである。