patti smith2003年のパティ・スミス──回収しきれぬなにかのために

文:熊谷朋哉
初出:The DIG no.38 (2003 Summer)

パティ・スミス、NYパンクのその後で

パティ・スミスが今年もやってきた。ここしばらくフジ・ロック・フェスティヴァルでの熱演が伝説的なものとなっているが、今回は7年振りの単独ホール公演。そしてそれに加え、彼女のドローイングや写真を中心にした日本に於ける初の展覧会「パティ・スミス Strange Messenger&Cross Section〜Works of Patti Smith」がパルコ・ミュージアムで開かれることになった('03年7月18日〜8月18日:終了)。

改めて彼女の軌跡を辿ってみよう。パティ・スミスは'46年ニュージャージー生まれ。読書と空想好きの少女時代を経て、'67年にNYに向かう。チェルシー・ホテルに住み、当時の多くのビート系アーティストや多くのポップ・アーティスト達と親交を結ぶ。劇作家サム・シェパード、写真家ロバート・メイプルソープ、アラン・レイニアー、トム・ヴァーラインとのロマンス/コラボレーションを重ねつつ、多くのジャンルで表現活動を始めることとなる。

徐々に詩人としても知られ始めるが、詩人としての彼女をデビューさせたのはアンディ・ウォーホルのスーパースターの一人、ジェラード・マランガ。さらに、ポエトリー・リーディングを発展させる形で、『ナゲッツ』のコンピレーションを編集していた評論家/ライターのレニー・ケイらとロック・バンドを結成。'75年、ジョン・ケイルのプロデュースによりアルバム『ホーセス』でメジャーデビューを飾ることになる。

その後はパティ・スミス・グループとして順調にアルバムを発表し、ツアーを重ね「NYパンクの女王」という言葉を欲しいままにするも、元MC5のフレッド・ソニック・スミスと結婚、長く音楽業界から離れる。その間は一人の母として子育てをしながら、ドローイングや写真、クラリネットの練習等は欠かしていなかったらしい。'95年、夫の死別により音楽業界に本格復帰。アルバム『ゴーン・アゲイン』を引っさげて翌年には待望の初来日公演を行う。

その後も順調にアルバムとツアーを繰り返し、完全に現役のアーティストとして第一線に踏みとどまっている。今ではもはや「NYパンク」という符牒が似つかわしくないようにも思える彼女が共同会見を開くという。

パティ・スミスの記者会見

以下の記事は6誌による共同会見を再構成したものである。時間が短く、残念ながら筆者に質問の機会は与えられなかった。

楽屋裏の会見会場に現れた彼女は、洗いざらしのパンツにヨレヨレのシャツという全く気取りの感じられない格好。靴下は左右が違っていた(!)。にこやかで、言葉遣いは予想以上に丁寧。しかし、魚の乾物をかじりながらその左右が違っている靴下のことをさも嬉しそうに語る彼女には、確かに、どのような角度からも愛されるであろう一種の天然ぶりが漂っていたように思う(2011年追記:だが、筆者は後年、それらが全てある種の意図のもとになされていることを知ることになった。しかしそれは彼女のしたたかさとして賞賛されるべきだろう)。早速ファッションに対する質問が飛んだのがおかしい。

◎パティさんはファッションデザイナーからも強いリスペクトを受けていますが、ファッションを通じて表現したいことはなんですか?

(笑)私は子供のころからなにも着るものに気を遣わないお転婆娘でした。まあ、主張があるとすれば、自分が心地良いということと、私が大好きだった人たちをイメージしているということかな。ボードレールやランボー、'60年代のボブ・ディラン、ジミ・ヘンドリクスとかね。でも一番大切なのは中身ですよ。外見だけを気にしてもしかたないし、何を着たっていいの。今日の私は間違って左右別々の靴下を履いてるけど(笑)、これを誰か真似る人がいたら(笑)、ちょっとかわいそうだと思っちゃうわね。

◎パティさんは音楽やアートやポエトリー等、色んなジャンルの表現活動を行っています。その中心にあるイメージはどのようなものなんですか?

私の表現活動には2つの方向性があります。ひとつは誰か、他人のために行うもの。ロックンロールや政治デモは、誰かに発信したり、人を楽しませるために行うもの。そしてもうひとつは、自分若しくは神のために行うもの。私にとってポエトリーや絵を描くことは、本当にプライベートなものなの。もちろん他の誰かのためになにかを発信しているときもあるけれど、瞑想の意味もあって、自己発見の意味が大きいですね。

◎イラク戦争や、それに対する世界同時の反戦デモがありますが、今後、アートがそういうものに対して役割を果たしうると思いますか?

イラクの戦争は最悪の事態で、私はそれに雑誌やラジオやあらゆる場所で反対を訴え続けています。9.11テロも最悪の出来事でした。ただ、今度はそれを理由にアメリカは他の国を侵略していますが、それは間違いです。あのテロから学ぶべきは、私たちは他の人たちとコミュニケートして話し合う必要があるということだったのに、人々は闘うことを選択してしまった。戦争反対は誰が言っても良いことだし、テクノロジーは世の中を良くするためにこそ発達するべきと思っています。

私は第二次大戦直後に生まれました。幼い時、広島や長崎の凄まじい写真を見たことがあります。大戦に参加した父に、これはなに?と聞いたら彼は泣いて教えてくれました。

「こんなことは誰も望んでいなかった、もう二度とあってはいけないことなんだ」。世界は哀しいことに満ちているけれど、私は今まで起きた最悪のことはヒロシマナガサキで起きたことだと思っています。私は未だに毎日そのことを考えています。

えーと、質問自体に対する答えですが、それは私の展覧会を見て欲しいと思います。私はひとりの人間として母親として、平和を望んでいます。

◎パティさんは、ケルアック、ギンズバーグやバロウズ、ミュージシャンではディラン、ジム・モリスン、ヘンドリクスといった時代の人たちの影響を強く受けています。そういう人たちと比べると、現代の表現者がやっていることは世の中に伝わりにくくなっているような気がします。アートの伝統の継承者として、自覚のようなものがありましたら教えてください。

今の一番の問題は、アーティスト達が自分たちが何を訴えたいかということが分かっていないことではないかしら。やはり動機、それが大事なんだと思います。

私がなぜ音楽の世界に入ったかというと、当時ロックがあまりに物質的になりすぎていたからなんですね。やはり政治的なこと、革命的なこと、精神的なことを音楽を通じて伝えることがとても大切だと思っていました。私は自分のメッセージを人に伝えたいと思います。特に次代を担う若い人たちに。私たちは言語は違っても考えていることは同じで、それは必ず伝わるはずだと考えています。中身が大切だということを強調したいですね。

◎私は多くのミュージシャン達にテロのことを聞いてますが、みんな、テロはいけない、戦争は反対だとは言うんですね。しかし、私たちがいくら言っても政府は変わらないという諦めがある気がします。それはアメリカ人も日本人も同じかもしれません。無力感に負けずにいるためにはどうすればよいと思いますか。

どうして諦めるのか、そのことが私には理解できません。今回明らかになった問題というのは、アメリカ人もミュージシャンも、戦争に対してなにもしなかったということだと思います。怖れがあったんでしょうね。政府に対しての怖れなのか、それともラジオで自分の曲が流されないかもという怖れなのか、それは分からないけれど。でも私はそんなことは気にもしません。たとえ自分のレコードが燃やされても自分のメッセージを伝え続けようと思っています。一番大切なのは真実を語ること、そして自分が真実だと思っていることを主張しても、必ずしも自分が思っているとおりにはならないということだと思います。

政府は私たちが諦めるのを待っているのです。私は茨の棘のように、政府をチクチクと痛めつけていきたいと思っています。自分たちのメッセージを発することが出来れば、すぐに結果が出なくても次の世代に結果は出るのではないでしょうか?