masayoshi sukita interview写真は一枚でいい
鋤田正義インタヴュー(2006)

インタヴュー:熊谷朋哉(SLOGAN)
初出:MACPOWER:2006年8月号
写真:下家康弘

そして日本という要素

今回ジェネシスから僕のボウイの写真集が出る(11年9月発売予定)ので色々とやりとりしてますが、考えさせられることは多いですね。日本という要素も、今回の写真集を出版して展覧会を開いて確かめたいことの一つです。テーマはボウイという存在であり、また、20世紀から21世紀にかけてアジア人が西洋人を撮るという歴史性でもあるわけです。ジェネシスは以前に『TIME TO LIVE』という20世紀の歴史的な写真集を作っているんだけど、その中に山本寛斎の衣装を着たボウイを撮った僕の写真が収録されたことがあるんです。色んな意味で光栄だし、また感慨深かったですね。

日本には、写真ではなくとも瞬間を捉えているヴィジュアル感覚が昔からあるんですよ。たとえば安藤広重の雨の中を人が歩く「名所江戸百景」、葛飾北斎の波の絵(「神奈川沖浪裏」)、それらはカメラマンとして見習いたいくらいの良い瞬間です。写真がなかったのに、よくああいう絵が作れたなと。あれらには音や自然を感じますね。ただの二次元の平面になにかをプラス/マイナスしていく感覚を、過去の人達がすでに持っていた。「蛙飛び込む水の音」もそうだけれど、あの場合はなにも音がしないのが大切なことで、たとえばポトンという音は、静けさがあって初めて成立する。日本には、そういう究極のところを感じることの昔ながらの伝統がありますよね。

結局のところ、ヴィジュアルというのはひとつの夢なんだと思っています。映画も、ストーリーは忘れてもイメージはひとつの夢みたいに記憶に残りますよね。夢というのは色んな意味があって、例えば自由であるということや、そういうことにも繋がっていくのですけれど。

鋤田正義の究極の一枚

僕の究極の一枚ですか? あのね、写真は、発表すると自分ひとりのものではなくなるんですよ。メディアに出した写真は皆の記憶の中で時代が要求したものへと変化していくわけですから。

ただ、それを僕個人で考えると、高校生の時に、リコーフレックスという一眼レフを親に買ってもらったんです。父親は戦死して母親に育てられているので、はじめに母親、兄弟、友達と撮っていくわけですよね。その時、盆踊りでの母親の浴衣姿を正面と横の両方で撮っていて、自分のなかで自信を持って究極と言える写真はそれらなんです。文字通り、最初にして、最後。すでに母親は亡くなっているけれど、それは自分だけのものです。

我ながら感心するのは当時から横顔を撮っていて、発表した時にそれを褒められたことがあります。記念写真でありつつも対象はカメラを見ていないから、そこに普遍性が現れたのかもしれません。「母親」というタイトルなんだけれど、横顔だからそれが誰かはわからないし。この写真には、確かに自信がある。

これからは、一般的にメディアのなかで流通しているイメージと、自分の思い入れや関わりみたいなものの両方が成立しているような写真を撮ることができればと思っています。仕事だとものすごくたくさん写真を撮りますよね。それは職業だから仕方ないんですけれど、結局のところ、写真は一枚でいいんです、僕にとっては。

鋤田正義 Masayoshi Sukita

1938年5月5日生まれ。福岡県直方市生まれ。日本写真専門学校卒。ラジオを聴きつつ映画に熱中。ジェームス・ディーンやマーロン・ブロンドに憧れ、55年の『暴力教室』でロックを知る。18歳からカメラを手にする。1961年広告代理店大広入社。1965年デルタモンド入社。ここでは旧友のアートディレクター宮原哲夫らと初期の代表作『JAZZ』等を制作。1970年よりフリー。この頃より『カメラ毎日』にて連載開始。以後、広告、映画、音楽の分野で精力的な活動を続ける。

ジャケット作品にデヴィッド・ボウイ、サディスティック・ミカ・バンド、YMO、シーナ&ザ・ロケッツ、布袋寅泰など。映画では寺山修司『書を捨て街に出よう』撮影監督、ポール・シュレーダー『MISHIMA』、ジム・ジャームッシュ『ミステリー・トレイン』、是枝裕和『花よりもなほ』などでスチール担当。写真集にデヴィッド・ボウイ写真集「氣/Ki」『T.REX 写真集』沢田研二写真集『水の皮膚』YMO写真集『YELLOW MAGIC ORCHESTRA×SUKITA』など。11年、英ジェネシス社よりデヴィッド・ボウイ写真集を出版予定。