t.rex and marc bolanマーク・ボラン──ある星との距離をめぐって(2005)

TEXT:熊谷朋哉
初出:AERA in ROCK 2(2005年7月)

マーク・ボランの星座

改めて、彼の軌跡を振り返ってみる。

マーク・ボラン、本名マーク・フェルド。'47年9月30日ロンドン生まれ。日本で言えばいわゆる団塊の世代に属し、またフェルド家がポーランド系のユダヤ人家庭であったことはやはり記憶されて然るべきだろう。幼少時からロックンロールに熱狂し、エディ・コクランの真似をした9歳時の写真が良く知られている。10歳にして初のロック・バンドを結成。

15歳になるといっぱしのモッズ少年として知られ始め、ファッション・モデルの仕事をこなす。すでにこの時期からスターになる夢を周囲に語って憚ることはなかった。

17歳、ボブ・ディランを歌いつつデビューのチャンスを窺う。最初の芸名はトビー・タイラー。'65年にデッカと契約。ここで初めて芸名をマーク・ボラン、つまりBo(b)(Dy)lanとしている。シングルをリリースし、後年発表されるアルバム等をレコーディングするも、成功には至らなかった。

この時期、マークとボウイはマネージメントを同じくしている。ほぼ同い年であり、また同じくモッズ出身であるマークとの出会いをボウイはこのように語っている。

「壁磨きのためにマネージャーのオフィスに呼ばれてみると、先に壁を磨いている一人のモッズがいたんだ。それがマーク。すぐに僕らは服とミシンの話を始めた。“その靴はどこで買ったんだ? そのシャツは?”  そして彼は言うんだよ。“俺は歌手になるぜ、無茶苦茶に売れてやるよ。おまえは信じないだろうけれどさ”

僕もやりかえした。“じゃ、僕もいつか君のためにミュージカルを書いてあげるよ、僕は最高の作曲家になるつもりなんだ”

彼は言ったね。“いらねえな。俺の曲を聴いてみな、すげえぜ。なんてったって俺はパリの魔法使いを知ってるんだからな”」

'67年、ジョンズ・チルドレンへの参加を経て、スティーヴ・ペレグリン・トゥックとティラノザウルス・レックスを結成する。翌'68年には運命のプロデューサー、トニー・ヴィスコンティと出会う。

トニーによると、マークの初対面の印象は「たぶんフランス人」。というのも、彼の歌にはトニーの理解出来る単語が一つもなかったらしい。ともあれ彼のプロデュースを得て、アルバム『ティラノザウルス・レックス登場!』で改めてデビューを果たす。こちらは徐々に支持を拡大し、アンダーグラウンド界にある程度の位置を占めることに成功する。

'69年には、ボウイが「スペース・オディッティ」で大ヒットを飛ばすが、ボウイとボランの関係はこじれを見せる。

ヴィスコンティ「特にマークがデビューしたときと、マークが成功する以前にボウイが〈スペース〜〉をヒットさせたときなどは二人の間で醜い対立がありましたね。ボウイはいつもマークを崇拝していました。彼はマークと友達になりたがっていた。マークがボウイをライバル視したほどには、ボウイはマークをライバル視していなかったと思います。彼はマークに同情していました。ボウイはマークが'70年代初頭に大成功して尊大になってしまったことを悲しんでいました」

ボウイ「マークは(〈スペース〜〉のヒットを)やけに大きく受け取ってしまって、まあ僕らも青かったんだね、ともに嫉妬してしまったんだ。辛かったね。半年くらいは顔も合わせなかったんじゃないかな」

ミック・ロック「私はマークとは付き合いがなかったんだ。ジギーの頃、ボウイとマークは口をきかなかったしね。これはマークに原因があったんじゃないかな。まあ、そんなこんながあって、マークが私に仕事を依頼してきた時も、ボウイは“ダメダメ、ダメだよ”と言ってきてね、私はボウイ側にいたからね」

翌'70年にはミッキー・フィンを迎え、バンド名をT.REXに改名。シングル「ライド・ア・ホワイト・スワン」が大ヒット。'71年、シングル「ゲット・イット・オン」、アルバム『電気の武者』を発表。カラフルなファッションとグラム・ロックの名とともにロンドンの新しいアイドルとして君臨。ついにスターの位置を手中にする。

'72年、ウェンブリーでのコンサートをリンゴ・スターが映画『ボーン・トゥ・ブギー』に収める。アルバム『スライダー』を発表。印象的なこのジャケット写真は長くリンゴ・スターのものとクレジットされてきたが、実際はトニー・ヴィスコンティの撮影によるものであることが明らかになっている。

ヴィスコンティ「マークは“しまった! すっかり忘れてたよ”と言っていましたが。実はマークは失読症でした。読むことも書くことも苦手だった。彼の肉筆はミススペルだらけでひどいものです。しかし知識はあった。古代に彼が生まれていたら、読み書きの必要のない語り部になっていたと思います」

また撮影といえば、マーク・ボランのイメージを決定的なものとした鋤田正義との初めてのフォト・セッションもこの時期である。名実ともに絶頂期と言えるだろう。この後に初来日を果たす。最終日の武道館公演では演奏中に地震と遭遇、ステージ中断のハプニング。

'73年、アルバム『タンクス』。メロディ・メイカー誌で「グラム・ロックは死んだ」と発言。10月には二度目の来日公演。'74年、トニー・ヴィスコンティ最後のプロデュース作となった『ズィンク・アロイと朝焼けの仮面ライダー』。'75年、初のマークによるプロデュース作『ブギーのアイドル』を発表。この年、晩年(!)の公私に渡るパートナーとなったグロリア・ジョーンズとの間にローラン・ボランが誕生。このローランは現在ミュージシャンとして活躍している。

'76年にはアルバム『銀河系よりの使者』。'77年、遺作となるアルバム『地下世界のダンディ』発表。ツアーではサポートにダムドを起用。T.REXはパンク・ムーヴメントの中で若いバンドからのオマージュを送られるようになっていた。グラナダTVでマークがホストを務める番組「マーク」放映開始。最終回のゲストはデヴィッド・ボウイだった。

そして同年9月16日、グロリアの運転する車の交通事故で死去。「30歳になる前に死ぬだろう」という自らの予言通り、享年29。星は堕ちた。長い不遇の時期をようやく脱却する予感を感じさせる中の悲劇だった。しかしそれにしても、なんと短い生涯であったことだろう。