t.rex and marc bolanマーク・ボラン──ある星との距離をめぐって(2005)

TEXT:熊谷朋哉
初出:AERA in ROCK 2(2005年7月)

堕星のロックンロール〜地下世界のダンディ

伝説ということばを使いたくはない。そのことばを前に、私たちはいつもなにかを語り損なう。だが、遺作となった作品の一節がなぜここまで私たちを戦慄させるのか。

“彼は地下世界のダンディ
彼がいつ呼吸のために身を現すか
もはや誰も気にはしないのだ”
〈地下世界のダンディ〉

地下世界のダンディ。この余りに魅力的なフレーズと遺影にしか見えないジャケットとが私たちに最後の謎かけを残す。予言の成就を知った私たちにはいったい何を語ることができるだろう? マーク・ボランは自らの未来を見通していたのか──?

そんなはずはない。マークは新たなキャリアへの希望とともにこの作品を作った。事故は悲劇だが、事故は単純に事故に過ぎない。それはあたりまえのことである。しかしそれ故にこそ、復活を目指す意欲に溢れる作品に現れる死の影に私たちは言葉を失う。

彼の生涯を振り返ってみれば、その絶頂期は本当に短い。せいぜい'70年から'73年までだろうか。そしてキング・エルヴィスの死がメディアを揺るがせた直後だったマークの死は、堕ちた元グラム・スターの死という扱いしか受けなかったようだ。地上における星の輝きは、確かにほぼ一瞬ではあったのだ。

しかし私は考えこむ。そもそも一度でも彼がその次元で生きたことがあったのだろうか。そして死んだことも? マーク・ボランという存在は単純な二元論とは無縁だった。天と地、また生と死、そのどちらかに加担してみせたことは一度もなかった。少なくとも私たちの記憶の中では、そして彼の残した作品群の、未だ変わらぬ栄光の中では。

マーク・ボランが、完全な過去のものとして振り返るだけの対象になることはないだろう。生きながら死んでいた者を葬り去ることは出来ない。彼の残した全ては、未だ空に輝く星として、また空から堕ちた星として輝いている。その美しさの理由は未だ明らかにされていない。

星を求めて手を伸ばす全ての者たちに、今もマークは優しく微笑みかける。

忘れな草の花を御存じ? あれは心を持たない。しかし或日、恋になやむ一人の麗人を慰めたことを御存じ?
蛙飛び込む水の音を御存じ?
(「ピエロ伝道者」坂口安吾)

※参考資料:『T.REX・ファイル』河添剛監修、シンコー・ミュージック、2005